ロックンロールもダンスポップもスカもパンクもメタルも自在に取り込んだ、00年代インディーロックシーン随一の音楽的愉快犯バンド=Hermann H. & The Pacemakers。バンド内にダンサーともアジテーターともつかない存在=ウルフこと若井悠樹を擁した統制の壊れた「遊び場感」はしかし、学生時代の友人同士で結成されたバンドならではの青春的な「こわれもの感」と地続きのものでもあった。メジャーデビューからほどなくして、メインソングライターのひとりである平床政治が脱退したのも、ついには2005年に活動休止に至ったのも、その「遊び場感」をメジャーという舞台で体現することの難しさを何よりリアルに物語っている。
しかしヘルマンは、岡本洋平は、あのワクワクする「遊び場感」を2012年にもう一度、大人のタフネスをもって再構築することを決めてステージに立った。さらに、平床を再びバンドに迎え、2014年には再始動後初のアルバム『THE NOISE, THE DANCE』を携えて10年ぶりのツアーを敢行するに至った。そして、2016年11月にはBillboard Live TOKYOでデビュー15周年記念ライブの開催を発表――。岡本の下咽頭癌が精密検査で発見されたのは、そのライブを目前に控えた2016年9月のことだった。ライブは中止、岡本は闘病生活に入った。
それでも、岡本は歌うことも、バンドマンであることも、父親であることも、何ひとつ諦めることなく病気と闘い、そして勝って戻ってきた。彼を突き動かすものは一体何か。以下、岡本とのMessengerでのやりとりから、その胸の内を読み取っていただければと思う。
ライター 高橋智樹
——Facebookで「ステージ4から本当のステージに戻るぜ」という力強い言葉を見て本当に安堵しています。入院当時のことを振り返るのはお辛いかもしれませんが、いくつか質問させてください。当時「以前から違和感を感じていた喉の精密検査を受けたところ腫瘍が発見された」とのことでしたが、最初に体の異変に気がついたきっかけは?
特に歌うということに支障はなかったけど、振り返れば嘔吐が頻繁に起こるようになりました。いわゆる町の病院では「声帯の疲労でしょう」と言われましたが、決定していたビルボード公演を控え、アレンジなどを再構築するため3カ月ばかりライブを控えた時、マネージャーから「こんな機会だから喉を見て貰えば?」と言われ、俺的には「いやいや大丈夫でしょう」と思っていたけど、ある時ふと「診てもらうか」となんとなく詳しい検査が出来る病院にフラリと行ったら「ウチではもう手に負えないので精密検査を」と。
——診断は「下咽頭癌」とのことですが、担当医の方からは病気の段階についてどんな説明を受けましたか?
紹介もあり、いくつかの病院に行きましたが、どの医師もまず、「ステージ4の進行形の癌です。喉の全摘出を行わないと命に関わります。その際、声は失われます。」と言われました。
しかし、結局主治医になる先生の方だけが、「岡本さんの職業、そして若さと体力を信じて全摘出の手術ではなく、化学療法(抗がん剤、放射線治療)から始め、とにかく喉を守りましょう」と仰ってくれ、まだ少しは希望があるんだと。そしてこの人となら闘える、と思いました。
——診断を受けた時の心境を、可能な限り詳細に教えてください。
正直よくわからなかったけど、「あ、俺死ぬのかな」とは病院の前でビール呑みながらぽかーんと思いました。そこからは、いい意味で諦めたというか。
——病名が判明した際のメンバーの反応は?
みんな絶句でしたね。
多分みんなも理解出来なかったと思う。
発覚してから入院まで、もう死ぬ覚悟は出来ていたので毎日友達やメンバーを家に招いてパーティーをやりました。ヘルマンの政治とウルフはよく来てくれて、男だけで語り合って、冗談交じりに葬式の祭壇の見取り図もヤツらに渡しました(笑)。このテレキャスはこっちで、このアコギはこっち、このアンプはここで、みたいな(笑)。
——ご家族も病気を知って大変ショックを受けたと思います。入院中、あるいは現在に至るまで、ご家族の言葉や行動で特に励まされたことがあれば教えてください。
やはり一番辛かったのは、当時4歳だった娘にこの病気を伝える、ということです。本気で生きて帰れるかわからない現実を、子供に叩きつけるのはどうかと思いましたが、発覚後ある時地元の茅ヶ崎の海の波打ち際で2人で手を繋いで遊んでる時、「伝えるなら今しかない」と思い、「パパは歌い過ぎて喉が疲れちゃったから、しばらく病院に行くよ。ひょっとしたら帰ってこれないかもしれないけど、大丈夫かな?」と伝えると、娘はしばらく考えて、「わかった! 大丈夫だよ!」と言ってくれました。あの一言が治療中もずっと頭の中に鳴ってました。それで乗り切れたような気がします。
——病名をアナウンスした際、「この病気と闘い、絶対に勝ってやる」というコメントも併せて発表していました。岡本くんにとって、闘病の最大の原動力となったものは?
やはりこの声のままで、ずっと娘の名前を呼びたかった、ことです。それが叶わないのなら、命は惜しくなかったです。
——「僕は僕の信じるやり方で、立ち向かい方で、持ちうる限り全ての前向きなエネルギーで!、しっかり病と向き合い、闘います。そして僕はまた汚いスニーカーを履いて何くわぬ顔で帰ってくるつもりです」という当時のコメントの、エモさと粋さが共存する感覚はそのまま、Hermann H. & The Pacemakersの音楽にも通じている気がするのですが?
病気との戦いは現在進行形で続くので、まだまだこの不安は続きますが、とりあえず言い放ったことは現状約束を果たせてるのかと。
何しろステージにいる自分が一番好きなので。
——退院後1年のCT検査で異常なしとのことで、僕も嬉しいです。病名宣告の前後で、人生観について/音楽に関する考え方について、自分の中で変わったと思う点はありますか?
ガラリと変わりました。
死、というものを否が応でも実感したせいで、ならば、また頂いた生を深くせねば、と思うようになりました。
日々の生活もそうですが、例えば僕が行う音楽や芸術は、仕事である前にまずリアルな作品であるべきで、人が何と言おうとそのピュアさを守らなければ生きてても意味がない、と「きっちり」徹底して思うようになりました。自分を、命を、魂も、大切にしてやろうと。この業界では売れる、売れない、みたいな話が先行しますが、俺の中でそれはもうあまり意味のあることではなく、誰にでも平等に与えられている、生きている、生きていないが、やはり一番大切なんだと。なんで俺が生きられたのかはよくわかりませんが、その意味を探すのがこれからの俺の音楽であり、これからの人生なんだと思います。
——今年の7月の復活祭で、岡本くんゆかりのアーティストが集結した素敵なお祭りが実現することと思います。「復活祭」は誰のアイデア?
俺ですね。
メンバーやスタッフも、岡本がいつ歌えるようになるのか、と気にかけてくれていましたが、やはりそこは俺がやろうぜ!って言わないと、と。病気にビビって生きてるだけじゃ俺にとっても良くないし。
身体はかなりの頻度でチェックされてますが、声帯ももう大丈夫なのであとは仕上げていくだけです。
——「復活祭」開催にあたって、「主役」としての意気込みをお聞かせください。
なんだろ、やっぱいつも通りのヘルマンを観せれればそれでいいかな。俺が癌だった、そして克服した、なんてことはどうでもいい。というか、それが結局俺にとっても一番の励みになります。別に前より良くなる必要も、悪くなる必要もなくて、あの、ただのヘルマン、そして岡本でいたいです。
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